長州藩医の次男として生まれ、吉田松陰の松下村塾で学ぶ。その後藩校の明倫館で教鞭を執り、幕末の激動期から鳥羽・伏見の戦いまで長州藩の最前線で活躍する。維新後はいったん郷里に戻ったが、1874年、熊谷県権令に、そして1876年に群馬県の設立に伴い県令に就任し、文化財の保護や蚕糸業の発展、教育の振興と10年にわたり創設期の群馬県の発展に多大な功績を残した。