上武絹の道

人間力が息づく
「上武絹の道」を拓いた人びと

事を為す人の力、人間という存在の放つ魅力とは何か。
「上武絹の道」の世界を織りなす多彩な人物。
それぞれの思いを探り、「人間力」を浮き彫りにする。

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先覚者、中居屋重兵衛の存在

「上武絹の道」の始まりに立つ者は誰か。時間軸でみても、存在の大きさからいっても、中居屋重兵衛であろう。
中居屋重兵衛は、安政6年(1859)横浜開港に時期を合わせて横浜に現れ、生糸貿易の先駆者となり、第一人者として活躍した。

重兵衛は文政3年(1820)、上州中居村(群馬県嬬恋村三原)に生まれ、幕末の動乱期に江戸へ出て、尊王派の志士たちと交わった。数えで40歳のとき横浜に出て「機を見るに敏にして、他の諸店に先鞭をつけ」(『横浜開港五十年史』明治42年刊)、「銅(あかがね)御殿」と呼ばれる豪壮な店を構えて輸出生糸を商った。開港時の安政6年の書簡史料によれば、重兵衛の扱った輸出生糸の量は「1万8、9千斤(1斤600グラムとして11トン前後)」で、それに次ぐ店の「5、6千斤」を引き離している。重兵衛は上州を中心に生糸を買い集め、盛んに外国商館に売り込んだ。名実ともに生糸貿易の先覚者として開港揺籃期の横浜で華々しく活動して約2年、重兵衛は突如として消息を絶つ。経緯には諸説あり、謎が多い。

嬬恋村の生家は現在「中居屋」という割烹を経営している。近くに重兵衛の遺髪を埋めたといわれる墓がある。

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学究肌の人、田島弥平

「それ養蚕の大意は人身を養うとはなはだ異なることなし」(『養蚕新論』)。自然の摂理に則って蚕を飼育すること(蚕種を生産すること)を田島弥平は説いた。蚕室を改良し、換気のための「やぐら」を考案した。

田島弥平は文政5年(1822)、上州・武州の境目に位置する蚕種の産地、島村(伊勢崎市境島村)に生まれた。学究肌の父・弥兵衛の美質を受け継ぎ、父子で東北など蚕種の産地を訪ね、蚕種製造に適した養蚕方法を模索した。明治5年(1872)『養蚕新論』と明治12年(1879)『続養蚕新論』は「実証的な研究書」として高く評価され、多くの蚕種家・養蚕家に影響を与えた。
明治5年、弥平は有志とともに優良蚕種の製造・販売を行う島村勧業会社の設立に参加した。会社設立には田島家と交流のあった渋沢栄一の勧めがあった。明治12年には2名の社員とともに蚕種(産卵紙)を携えて洋行し、イタリアへの直輸出を行った。
蚕種輸出の趨勢は漸減し、明治10年代末に勧業会社は解散したが、篤実な弥平は生涯蚕業を続けた。詩書を能くし、画技に巧みな文化人でもあった。

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高山長五郎と木村九蔵

高山長五郎と木村九蔵という兄弟の存在は「上」と「武」のつながりを象徴している。
二人は上州高山村(群馬県藤岡市高山)の養蚕農家に生まれ、長五郎は家督を継ぎ、九蔵は武州新宿村(埼玉県神川町新宿)の木村家の養子となった。二人とも幼い頃から養蚕に興味を持ち、長じて長五郎は通風と温度管理を調和させた養蚕法「清温育」を、九蔵は炭火と換気によって蚕室の温度・湿度を調節する養蚕法「一派温暖育」を確立した。長五郎は天保元年(1830)生まれで、九蔵と15歳の差があったが、二人は仲の良い兄弟かつ良きライバルで、情報交換をしながら互いに養蚕技術を磨き上げていったといわれる。

養蚕結社として設立された長五郎の高山社と九蔵の競進社は、共に蚕業教育の一大拠点として発展した。群馬県内を中心に分教場をつくり「全国の養蚕の総本山」と称された高山社は、全国、そして中国からも生徒が来た。競進社は全国に支部(伝習施設)をつくり、大正初期に全国30カ所以上の支部、社員登録3万人余りを数えたという。競進社蚕業学校はのち埼玉県立児玉農業高校を経て、現在、児玉白楊高校になり、生物資源科に蚕業の系譜を伝えている。

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原善三郎と原富太郎

富岡製糸場を明治35年(1902)から昭和14年(1939)まで経営した原合名会社、そのルーツは埼玉県にある。

原財閥の祖、原善三郎は文政10年(1827)武州渡瀬村(埼玉県神川町渡瀬)に生まれ、文久2年(1862)に横浜で生糸売込商「亀屋」を開き、財を成した。故郷の神川町と群馬県下仁田町に製糸工場を建設し、のちの原合名会社の基礎をつくった。神川町に広大な別邸跡「天神山庭園」がある。原家の養子となった原富太郎(慶応4年(1868)生まれ)は、善三郎の事業を引き継ぎ、原合名会社に改組し、本格的に製糸業に進出した。富岡製糸場を三井家から譲り受けるほか、3つの製糸場を買い取り、近代的な事業経営を展開した。
神川町にあった「原製糸所(のち原渡瀬製糸所)」は、昭和初期まで製糸工場として稼働していたが、昭和15年(1940)、絶縁体のマイカ(雲母)を製造する「日本マイカ」の工場施設となった。現在、日本マイカ製作所の敷地内に、繭倉庫・繰糸工場・貯水槽などが残り、製糸工場時代の姿を垣間見ることができる。

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富岡製糸場を守った速水堅曹

速水堅曹の名は、日本で初めて器械製糸工場をつくった人物として、また富岡製糸場の経営改善に取り組み、民営化へと存続させた人物として記憶される。
速水堅曹は天保10年(1839)川越生まれ。川越藩の前橋藩への移封によって前橋藩士となり、藩命により横浜に生糸売込問屋を開業した。スイス人ミューラーから器械製糸技術を学び、深沢雄象らと共に明治3年(1870)日本初の器械製糸工場「藩営前橋製糸所」を設立した。

請われて内務省の官吏となった速水は、器械製糸に関する経験や経営手腕などを見込まれ、明治12年(1879)富岡製糸場第3代所長に就任。翌年、生糸の直輸出を担う「横浜同伸会社」の設立に加わり、製糸場所長を辞任。明治18年(1885)再び所長(第5代)となり、明治26年(1893)に製糸場が三井家に払い下げられるまで8年間、所長を務めた。速水は製糸場の改革を進める一方で、横浜同伸会社を通してアメリカ向けの輸出を増やし、日本の生糸の評価を高めた。

製糸場経営にあたっては、「製糸の業は精神の業」として、工女たちの生活・学習環境を整えた。
富岡製糸場の民間払い下げ問題については、官営の模範伝習工場としての役目は終わったとする廃場論もあったが、速水は器械製糸の旗艦工場として存続することを主張して廃場論を退け、三井家に引き渡して富岡製糸場の命脈を保った。

海外へ飛躍した新井領一郎

新井領一郎は安政2年(1855)上州水沼村(群馬県桐生市黒保根町)の星野家に生まれ、桐生の生糸問屋新井家の養子となった。開成学校(東京大学)、東京商法講習所(一橋大学)で学んだあと、明治9年(1876)生糸の市場開拓と直輸出のため、渡米。兄・星野長太郎が経営する水沼製糸所の生糸の直売を果たした。外国人居留地外商を経由しない生糸の直輸出はこれが初といわれる。水沼製糸所は、星野長太郎が速水堅曹から器械製糸技術を学んで開設した群馬初の民間洋式器械製糸工場であった。その後、新井領一郎はアメリカに在住し、国際的ビジネスマンの先駆者として、日米生糸貿易の振興および日米交流・友好に努めた。
渡米の際、吉田松陰の妹で楫取素彦の妻・寿から、松陰の形見の短刀を渡されたエピソードはよく知られる。短刀はカリフォルニア在住の領一郎の子孫に受け継がれ、2016年、子孫から前橋市に寄託された。

領一郎は昭和14年(1939)コネチカット州の自宅で死去(84歳)。ニューヨークのウッドローン墓地に葬られた。領一郎の死を悼み、ニューヨーク商品取引所は黙祷を捧げ、「ニューヨーク・タイムズ」は「日米生糸貿易の創始者」と訃報を伝えた。
領一郎の生家跡(桐生市黒保根町)は現在、西町インターナショナルスクール(本部・港区西麻布、領一郎の孫の松方種子が創設)のサマーキャンプ場として利用されている。

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